地政学リスクへの危機意識は過去最高に達した。しかし、実際の対応体制となると話は別である。PwC Japanグループが2026年10月16日に発表した「企業の地政学リスク対応実態調査2026」では、地政学リスクマネジメントを経営戦略上「重要」と位置づける企業が88%に達する一方、具体的な対応体制について「対応をとっていない」と答えた企業が31%に上った。本稿は、この調査が公表した数字を一次情報から整理し、企業の地政学リスク対応がどこで止まっているのかを読み解く。
結論 — 地政学リスクの認識は88%、対応体制は31%が「対応なし」
調査が示した構図は単純である。認識は上がり、体制は上がっていない。
- 地政学リスクマネジメントを経営戦略上「とても重要」(41%)または「やや重要」(47%)と位置づける企業は合計88%で、過去最高を記録した。
- 過去5年間でビジネスに関わる地政学リスクレベルが「著しく高まっている」と答えた企業は35%で過去最高。「やや高まっている」(42%)と合わせると77%の企業がリスクレベルの高まりを認識している。
- 一方、具体的な対応体制については「対応をとっていない」が31%。2025年は29%、2024年は32%であり、直近3年はほぼ同水準で推移している。
この31%は「無関心な3割」ではない。重要性を認識している88%の中に、体制を持たない3割が含まれている。関心の不足ではなく、体制構築の局面で止まっている、というのがこの数字の読み方である。
出典: PwC Japanグループ「企業の地政学リスク対応実態調査2026」結果発表(2026年10月16日)
PwC「企業の地政学リスク対応実態調査2026」の調査概要
数字を読む前に、調査の設計を確認しておきたい。条件が違えば比較はできない。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 調査主体 | PwC Japanグループ |
| 発表日 | 2026年10月16日 |
| 調査対象 | 海外で事業を展開する売上規模年商100億円以上の企業に勤務する管理職400名 |
| 調査方法 | オンライン調査 |
| 調査時期 | 2026年8月 |
| 継続性 | 2019年3月に開始し、今回が8回目(2021年8月、2022年8月、2023年8月、2024年7月、2025年6月および9月に実施) |
ここで押さえるべきは、対象が「海外で事業を展開する年商100億円以上の企業の管理職」に限定されている点である。中小企業や内需専業の企業は含まれない。したがって、この31%を「日本企業全体の3割」と読むのは誤りであり、「海外事業を持つ一定規模以上の企業の管理職の3割」と読むのが正確である。
数字の読み解き① 危機意識は過去最高、しかし体制は一進一退
リスク認識の側は、明確に過去最高である。35%が「著しく高まっている」、42%が「やや高まっている」と回答し、合計77%がリスクレベルの上昇を実感している。重要性の認識も41%が「とても重要」、47%が「やや重要」で合計88%。いずれも調査開始以来の最高水準にあたる。
ところが体制側は動いていない。「対応をとっていない」は2024年32%、2025年29%、2026年31%と、3年間で3ポイントの範囲を上下しているだけである。
この非対称は、リスクマネジメントの一般的な陥り方と一致する。認識を高めること(経営会議の議題にする、研修を実施する)は比較的容易であり、権限・予算・人員を伴う体制の構築は難しい。認識の指標だけを見ていると、対応が進んでいるように見えてしまう。地政学リスク対応の進捗は、認識ではなく体制の設問で測るべきである。
数字の読み解き② 対応体制の中身 — 専任チームは17%にとどまる
「対応あり」と答えた企業の内訳も、実態を示している。
- 「専任ではないが、社内に対応チーム(部署)がある」: 37%(前年とほぼ変わらず)
- 「社内に専任チーム(部署)を設けて対応している」: 17%
- 「兼任の役員がいる」: 7%
- 「専任の役員がいる」: 5%
専任チームを持つ企業は17%、専任の役員を置く企業は5%である。役員レベル(兼任7%+専任5%)を合計しても12%で、1割台にとどまる。
つまり過半の企業は、地政学リスクを「既存の部署の兼務」で処理している。兼務体制には費用面の利点がある一方、平時の業務に押されて情報収集が後回しになりやすいという構造的な弱点がある。有事の初動は平時の準備量で決まるため、この17%という数字は、日本企業の初動能力の上限を示す指標として読める。
企業が懸念する地政学リスク — 1位は「トランプ関税の本格化」
現在最も懸念している地政学リスク(最大3つ選択)の上位5項目は次のとおりである。
- トランプ関税の本格化
- 保護主義的政策
- 米中対立
- 中東情勢の広域化・泥沼化
- エネルギー供給構造の変化に伴う需給の不安定性
上位3項目が米国関連で占められた点が特徴である。関税措置や二国間交渉という「実務に直結するリスク」が上位に来ており、抽象的な地政学リスクではなく、調達価格・関税率・通関手続といった具体の業務に影響する論点が選ばれている。
4位に中東情勢、5位にエネルギー需給が入ったことも見逃せない。PwCの発表は、海上輸送ルートの寸断がもたらす調達遅延やコスト増加に対して、日本企業が強い警戒感を持っていると分析している。日本の製造業にとって、シーレーン(海上輸送路)は生産計画の前提条件である。
中国事業は「継続」49%へ、移管先はインドが2位に浮上
中国事業の扱いにも変化が出ている。
- 「これまで通り事業を継続する」: 前年39% → 49%へ増加
- 生産・調達プロセスの中国国外への移管検討: 前年26% → 23%へ微減
不確実性が高まる局面で、撤退ではなく静観に振れた形である。ただし、これは「中国リスクが下がった」ことを意味しない。移管の意思決定を先送りし、状況を観察するフェーズに入ったという解釈のほうが自然である。
移管先の内訳は、より実務的である。
- 日本(国内回帰): 47%(前年53%から減少)
- インド: 32%(2位に浮上。医薬品50%、半導体39%で選択が目立つ)
- インドネシア: 22%
- フィリピン: 16%
前年まで首位だった国内回帰が6ポイント減り、インドが2位に入った。円安による国内回帰の追い風が頭打ちになったこと、そしてチャイナ・プラス・ワンの受け皿としてアジア域内へ分散が進んだことが読み取れる。業種別では医薬品と半導体でインド選択が突出しており、規制対応と技術者確保の両面でインドが選ばれていると推測できる。
有事の即断即決は2割 — インテリジェンス3要素の弱点
調査は、情報収集・分析・実行実装というインテリジェンスの3要素についても尋ねている。そこで浮かび上がったのが、実行・実装能力の低さである。
有事の際に「数日以内に即断即決できる」とする企業は、およそ2割にとどまった。日本企業が非常時においても丁寧な合意形成を重んじる傾向が、意思決定の速度を制約している。加えて、リスク情報を投資家向けの開示ストーリーへ翻訳する専門人材が不足しており、それが市場からの外部評価を得るうえでのボトルネックになっているという指摘も示されている。
ここには実務上の示唆がある。地政学リスク対応の整備とは、分析部門を増やすことだけではない。意思決定の権限と期限をあらかじめ決めておくこと、そしてリスク情報を開示資料へ変換できる人材を確保することが、同じ比重で必要になる。
地政学リスク対応の実務 — 明日から何をすればよいか
調査結果を踏まえると、実務の着手順はおおむね次の5段になる。
- 対象範囲の確定: 自社の海外拠点・調達先・販売先を棚卸しし、地政学リスクに晒される取引を列挙する。関税・通関・送金・知財の4分類で整理すると抜けが減る。
- リスクの二値化: 「懸念している」ではなく「発生したら何日で影響が出るか」で並べ替える。日単位で影響が出る取引から手を打つ。
- 判断権限と期限の事前決定: 有事に誰が何日以内に決めるかを文書化する。即断即決が2割という調査結果は、ここが最も空白であることを示している。
- 兼任体制の弱点を補う: 専任チームを新設できない場合でも、情報収集の担当者と頻度を名指しで決める。兼務のまま「担当は全員」にすると機能しない。
- 開示への接続: リスク情報を決算説明・統合報告へ落とし込む経路を決める。外部評価は、リスクの存在ではなく開示の有無で下される。
これらは調査結果から導かれる一般的な整理であり、特定企業の事例ではない。自社の規模・業種に合わせて取捨選択する必要がある。
この調査の限界と数字の扱い方
最後に、数字の読み方について統計的な注意を記しておきたい。
対象は管理職400名である。比率の推計には標本誤差が伴う。「対応なし」31%の標準誤差は約2.3ポイント(√(0.31×0.69÷400))であり、95%信頼区間はおおむね±4.5ポイントとなる。比率の正規近似が妥当とされる目安(n×p≧5 かつ n×(1−p)≧5)は、31%の場合で n×p=124 となっており満たしている。
この前提に立つと、2025年29%と2026年31%の差(2ポイント)は誤差の範囲内であり、「ほぼ同水準」と表現するのが正確である。35%という「過去最高」も、単年での比較ではなく複数年の推移として見るべきである。
また、対象は管理職個人の認識であり、企業としての公式見解ではない。部署によって回答が変わり得る設問(体制の有無など)は、回答者の役職・所属による偏りを含み得る。
よくある質問 — 地政学リスク対応とは何か、専任チームは必要か
地政学リスクマネジメントとは何を指すか。 国家間の対立・政策変更・紛争・通商規制など、企業の外部環境を地政学的な要因から変動させるリスクを、事前に識別し、影響を低減する活動の総称である。関税、輸出管理、制裁、送金規制、シーレーンの途絶などが主要な論点になる。
専任チームは必須か。 調査では専任チームを持つ企業は17%にとどまる。専任化の利点は情報収集の継続性と意思決定の速度であり、欠点は固定費である。専任化しない場合でも、担当者・頻度・報告先を名指しで決めることが実効性の分かれ目になる。
日本企業は対応が遅れているのか。 認識は88%と高く、国際比較でも低くはないと考えられる。ただしPwCは今回、日本以外の主要8カ国・地域の企業にも意識調査を実施しており、結果は準備が整い次第公表される予定である。国際比較の結論は、その公表後に判断するのが妥当である。
まとめ — 地政学リスク対応を「体制」に落とすために
この調査の核心は、認識と体制の落差にある。88%が重要性を認め、77%がリスクの高まりを実感している。それでも31%が体制を持たず、専任チームは17%、専任役員は5%にとどまる。有事に数日以内で決められる企業は2割しかいない。
したがって、次の一手は「意識を高める」ことではない。すでに意識は高い。必要なのは、判断権限・期限・担当者を文書で決めること、そしてリスク情報を開示へ変換する経路を用意することである。地政学リスク対応の成熟度は、研修の回数ではなく、有事の初動日数で測るのが妥当だと考える。
政策と経済の役割分担については日銀と政府の役割の違いで、為替と外部環境の読み方については今後急速な円高になる可能性あり【2024年5月5日の為替雑感】で扱っている。関税や通商政策が為替・金利を通じて企業収益へ波及する経路は、あわせて読むと理解しやすい。
出典
- PwC Japanグループ「企業の地政学リスク対応実態調査2026」結果発表(2026年10月16日、2026-10-20参照)
